ソロスと村上の格の違い

東京地裁村上ファンドの村上被告への判決が出ました。
(懲役2年+罰金300万円、MACアセットマネジメントに罰金3億円、追徴11億4900円6326円で、執行猶予なし。)


このニュースを改めて見て、資本市場について考えるいい材料だと思ったので、一言、二言、三言・・・。


まずは、ファンド資本主義の権化のように言われるソロスについて。

ジョージ・ソロスヘッジファンド悪玉論の根拠として、タイの通貨危機がよく引き合いに出されるが、個人的には、そうは思わない。タイバーツ暴落が、ヘッジファンドが悪であることの根拠であれば、それは、少なくとも現行の変動相場制を前提とする資本制度の否定であると思う。


バーツ暴落がなぜあれほどの結果になったかというと、彼の再帰性理論が正しかったからである。再帰性理論とは、一言で言えば、群集心理が現実に影響を及ぼし、それによって変化した現実が更に群集心理に影響を及ぼす、ということ。つまり、ループ現象。資産効果というやつも同じこと。

当時、タイには、ヘッジファンドのみならず、銀行や投資信託のお金(しかも短期のもの)が大量に流入していた。それは、バーツが、固定相場制により、過大評価されていたからに他ならない。過大評価が更なる投資資金を引き付け、それにより、更にバーツが過大評価される・・・。そうやって集まった金がどこに向かったかというと、そう、不動産。歴史は繰り返す。

資本主義下において、そのような歪んだ状況が放置されるはずもなく、変動相場制への移行に伴ってバーツが下がると、ドル建て債務のバーツ建て価値が上がる(=債務が膨らむ)ので、信用不安が生じ、その他の投資家も逃げ遅れまいと、次々に売りを浴びせる。みんなが売るから、バーツが下がり、そうやってバーツが急激に下がるから、信用不安はますます増大し、外国人投資家もタイ人もみんながもっと売り浴びせ、バーツの下落が止まらず、タイ経済が崩壊し、それを見た人がますますバーツを売る・・・。

結局、タイ中央銀行は、変動相場制移行に伴い20%くらいは下がると見ていたようであるが、『ミスター・マーケット』を甘く見ていたのかもしれない。対して、ソロスは、『ミスター・マーケット』を読み切っていたといえる。


ここで村上に話を戻そう。

彼は、まさに再帰過程を自分で作ろうとした。
つまり、ソロスは、市場における再帰過程を『読む』ことで利益を上げたが、村上は、再帰過程を『作る』ことで利益を上げようとした。
例えば、村上ファンドがある企業に投資し、プロキシーファイトTOBを仕掛ける。そうすると株価が上がり、もっと高値で買う第三者が現れる。そのうち、村上ファンドがある会社に投資した事実が公表されると、村上ファンド銘柄であるというだけで思惑を呼び、株価が上がる。そうすると、思惑が思惑を呼び、さらに多くの人がその会社の株を買い、株価がもっと上がる。株価が上限に近づく頃には、売り抜けている・・。

このように、村上の『作る』という発想は、インサイダー取引の発想そのものであって、捕まるのは時間の問題であったという見方もできる。また、『ミスター・マーケット』に逆らう行為に頼っていた以上、早晩限界が来ることも明らかであったということができるかもしれない。
もちろん、全く理由がないところには再帰過程は起こらないので、その意味では、割安な銘柄を発掘する必要があった。


このように、ソロスと村上の格の違いは明らかだ。
村上ファンド悪玉論は、資本主義悪玉論やファンド悪玉論を意味しない。


今回の事件が、投下資本の回収を急ぎすぎたことに遠因があるとすれば、それは、村上の責任であって、(償還期限があるとはいえ)ファンドという仕組みのせいではない。なぜなら、ファンドマネージャーは、ファンドの償還期限を見据えた投資を行うべきだからであり、また、投資の成功のためには、『ミスター・マーケット』が気づくよりも早く投資を実行し、適切なタイミングでEXITする必要があるが、投資を行うのが早すぎたということは、それはファンドマネージャーが『ミスター・マーケット』の動向を読み違えたということに他ならないからである。実際、ソロスも、たびたび「投資するのが早すぎた」という事態を経験している。償還期限があることによってパフォーマンスが下がるリスクは、ファンドによる投資という金融商品を選択した投資家が負うべきものであって、ファンドマネージャーが負うべき責任ではないであろう。ただ、そうは言っても、リターンという数字だけで判断されるのが、ファンドマネージャーのつらいところか。シリコンバレーでは、良い投資家が良いファンドマネージャー(ここではVCのFMという文脈)を育てると言われてきた。民主主義が、国民のレベルが低ければ衆愚政治となってしまうのと同様、投資家のレベルが低ければ資本市場の成熟化はおぼつかない。


人間の思惑が絡む以上、マーケットの歪みが必ず生じる。この歪みの是正を否定することは、資本主義の精神を否定することだと思う。

『完全なマーケット』なるものが存在するとすれば、それは、資本市場の参加者が、決して誤りを犯さないほどに成熟したとき、つまり、市場参加者全員が、株式、為替、その他取引の対象となるものの価値を寸分たがわず見極めることができる状態になったときに、実現するんでしょう。まぁ、そんな状況は、起こりそうにないが。。。