村上裁判の判決内容について

村上裁判の判決について、世間ではいろいろと波紋を呼んでいるようである。
しかし、株価も反応しなかったし、関係者は、冷静に受け止めているのではなかろうか。

そうは言っても、いろいろと考えることもあると思うので、少し取り上げてみたいと思う。世間で波紋を呼んでいる論点を挙げると、次の3点のように思われる。

1 インサイダー情報の実現可能性の有無・程度
2 ファンドマネージャーとしての活動とアクティビストとしての活動の峻別
3 村上が「ファンドなのだから、安ければ買うし高ければ売るのは当たり前」と言ったことについて、「このような徹底した利益至上主義には、慄然とせざるを得ない」と述べた裁判所の価値観


■大前提

そもそも、判決とは、当該事案の解決のためのものであり、判決全体を通して読んで、はじめて判決の真の意図・判決の射程を正しく捉えることができる。
したがって、判決要旨に関する一部報道で抜き出された個々の文言や個々の言い回しだけを捉えて論じることは、あまり有益なことではない。
このことについては、十分に留意しておく必要がある。

また、インサイダーで起訴される事件というのは、かなり悪質な事案である。つまり、村上は前から狙われていた、「村上はやばい」と噂され、多くのタレコミがなされていたということである。
結果、ライブドア事件の捜査において、今回の事件の証拠資料(主にメール)がごっそり押さえられたようであり、一部報道でも引用されていたが、言い訳できないようなメールが多数存在し(ただでさえ、『あのときのメールは、本当はこういう意図だった』などという言い訳は通用しない)、誰がどう見ても有罪というほどの証拠が集まっていた事件であった。
これらのことを総合的に考えると、村上がこのままの法廷戦略を採る限り、逆転はないと思われるし、捜査に全面的に協力した宮内氏が実刑になったことを考えると、今後罪を認めても実刑は免れないのではないかと思われる。



■論点1について、

従来、インサイダー情報には、一定の実現可能性が必要であると考えられていた。

インサイダー情報の実現可能性について判示したリーディングケースの判例は、最判平成11年6月10日(平成10年(あ)第1146号、1229号)であり、同判決は、以下のように述べていた。

証券取引法166条2項1号にいう「業務執行を決定する期間」は、商法所定の決定権限のある機関に限られず、実質的に会社の意思決定と同視されるような意思決定を行うことのできる機関であれば足りる」

証券取引法166条2項1号にいう「株式の発行」を行うことについての「決定」をしたとは、右のような機関において、株式の発行それ自体や株式の発行に向けた作業等を会社の業務として行う旨を決定したことをいうものであり、右決定をしたというためには右機関において株式の発行の実現を意図して行ったことを要するが、当該株式の発行が確実に実行されるとの予測が成り立つことは要しないと解するのが相当である。」


今回の地裁判決は、「実現可能性が全くない場合は除かれるが、あれば足り、その高低は問題とならない」旨を述べた。

証券取引法の権威である黒沼悦郎教授が、「今回の判決は、最高裁判例より、さらにハードルを下げてしまった不当な判決」と述べており(7月20日付日経新聞朝刊)、学説としては、このように地裁判決を解釈する方向に流れると思われる。

しかしながら、私見は、今回の地裁判決は正しいと思う。
なぜなら、インサイダー取引規制は、刑事罰を伴う規制であり、罪刑法定主義の観点から、明確な基準が必要であるし、そうでなくても一般の多数の投資家が関係する規制であるから、一般投資家が理解しうる程度に明確である必要があるからである。
すなわち、もし仮に、インサイダー情報の実現可能性について、「ある程度の実現可能性」とか、「実現に向けて合理的な根拠を有する程度」とか、「社会通念上、実現するであろうと考えられる程度」などという基準を立てた場合、そのような基準が具体的などの程度のものであるかは、全くもって判断不能である。取引に際して、事前に判断不能であるということは、そのような取引規制は有効かつ適切な規制たりえない。情報の受け手によっても、実現可能性に関する理解は異なるであろう。
このように、インサイダー取引規制において、インサイダー情報の実現可能性を論じることは、全く実際的ではないのである。

そうすると、地裁判決が正しいことは、明らかであるように思われる。


なお、今回の地裁判決によれば、「成功確率が1%ぐらいの決定を聞いたとしても、インサイダー情報とみなされることになる。」という指摘がある(大田洋弁護士の発言、7月19日付日経新聞夕刊)。

しかし、この指摘は的を射ていないと思われる。
なぜなら、上述のとおり、インサイダー取引規制における「実現可能性」とは、そもそも客観的な数字(%など)で示すことができるような性質のものではないし、一般投資家が当該数値を認識しようがない(情報の受け手によって当該数値は異なる)以上、そのような数値化は無意味であるからである。
そもそも今回の地裁判決は、「実現可能性はかなり高かった」と認定しているから、実現可能性が1%であったと認定しているわけではないし、そもそも実現可能性がどの程度必要であるかという論点についての一般論は、ちょっと踏み込んで述べた、という位置づけにすぎないといえるから、今回の地裁判決の射程については、もう少し綿密な検討が必要であろう(ただ、上記黒沼教授の発言のとおりに理解される可能性が高い)。


このような地裁判決によれば、実務が回らないという指摘も見受けられるが、仮にそれが事実だとしても、インサイダー情報の実現可能性の高低という論点で解決すべき問題ではなく、他の基準によって解決すべき問題であろう。


■論点2について

判決要旨を額面どおり受け取ると、アクティビストは活動できない、という批判が見られる。
しかし、今回の判決は、アクティビスト活動とは全く無関係であり、アクティビスト活動のあり方について何かを判断したわけではない。つまり、アクティビスト活動とは、平たく言えば、株主が企業価値向上のために経営陣にプレッシャーをかける活動である。村上ファンドは、ニッポン放送ライブドア企業価値向上のために何かをしたわけではないし、今回の裁判でもそのことが争点となっているわけではない。今回の裁判の争点は、あくまでも、ライブドアを利用して売り抜けた村上の株式売却行為なのである。
裁判所が言いたかったのは、村上ファンドにおける村上のワンマンぶりが、今回の事件を招いた遠因である、という程度のことであろう。


■論点3について

これは、判決文を読んでみないと何ともいえないが、おそらく、報道では省略されているが、量刑理由として様々な事情を認定しているはずである。
推測するに、裁判所は「村上のやり方が悪い」と言いたかっただけだったのに、ちょっと勇み足で筆が滑ってしまったというのが真実に近いのではないだろうか。聞くところによれば、今回の裁判長は、かなりクセのある方のようではある。。。

ブルドック事件の高裁判決といい、裁判所が、金融というものを嫌っている、もしくは、金融というのものについての基本的理解を欠いていると受け取られても仕方がないような言い回しが使われるのは、残念でならない。
ただ、関係者は冷静なようなので、投資が冷え込むなどということは、杞憂だと思われる。


■その他

総評としては、今回の判決は、業界にはあまり大きな影響はないのだろうと思われる。

余談だが、村上は自分のことを「プロ中のプロ」と言っていた。だが、自分のことをプロと呼ぶ人間は、プロではないことが多いということを示す格好の事件である。